昭和45年05月06日 夜の御理解
今日日田の高芝さんと綾部さんが、お礼に出て見えましてから三、四日前にホテルの方でテレビを盗られておりました。そのお願いに来ておりましたがおかげを頂いてから、今日テレビが出て来たという。もう本当にその前後の事を話しておりましたが、本当に神様のおかげでなからなきゃでけんという様なおかげを頂いて。あのホテルの事ですからテレビを盗られた後、又一台購入しておられたんですけれども。
それも普通、そんな事出来ないのに、先方の方が引き取って呉れるという様なおかげを頂いて、今日お礼に出てきたという訳なんですけれども。盗られた時に、高芝さん達夫婦が、又綾部さん自身が、色々それで反省させられたという意味の事を言って居りますが。あのう、おかげを頂くということは、それは好い事、悪い事全ての中からね、全ての中から、その事でどれだけ自分の心持ちが進展したかと、又はその事によって、今度の事でおかげを頂いた。
痛い思いをしたけれども、又はその時はびっくりしたけれどもといった様な事柄の中にでも、その後に只それが治ったとか、盗難に逢うた物が出てきた、といった様な事ではなくて、その事を通してここが分かったと言う。これは私が何時もいうなら皆さんに聞いて貰っている通りですけれども。本気でそこを頂かなかったら、信心の向上は全然有り得ないと思うですね。
今日、私、ある先生のまあ自叙伝とも思われる様な、自分の生い立ちから現在おかげを受けて居られる事迄を大変まあ素晴らしい筆致で書いておられる本を最近出された御本ですけれども、読ませて頂いておりましたら、あのコンクリートで作ったですね、象の姿を頂いてね、象の鼻が、こうして鼻を粉々に折られるところを頂きました。これはね、私どういう事かというと、その先生が思い固めてござる、思い込んでござるという、硬いことは、コンクリの様に硬いというのでしょうね。
けども私達はね、もう何時もこれで良いという事ではないということです。今は私ここんところをこう確信しとるけれども、もっとより本当の事があるだろうと。だからそのより本当のことをです、何かの機会により本当な事を分かっていくという姿勢を何時も取っておかないと。よくそんな人達が有りますよ。こうだと思い込んでおると一生持ち続けるなんて。いい事の様であって、これでは向上が無い。
それこそ、コンクリートの様に硬い思いでしょうけれども、それではね、やはり慢心。いわゆる又、慢心の鼻が粉々に砕かれる様なことであってはならんというう風に私は頂きましてね。よりその事を読んで行く内に、ああ素晴らしいなあ、素晴らしい旅行されたんだなあという風に思って読んでおりましたけれども、神様からそんなお知らせを頂いたんですけれどもね。その高芝さんのテレビが出てきた。
綾部さんがお礼に出て見えた事に対してからね、その事を通して皆が色々分からせられておるということ。皆がその事によって例えば信心が一段進んだとか、一段深められたというもんでなからなければならない。で、なかったらそれこそ惜しい。石井清さんの言葉を借って言うならばです、本当にいわばおかげを頂きたいならという事をですね、所謂損得ずくめで行くならばという風に言っております、ね。
おかげを頂きたいと言う事は、やっぱりあの損得ずくめですよ。よい意味合に於てだから本うとにおかげを頂きたいならば、その事を一つのまあその事を一つの時点として、そこからの一段進んだ信心が為されなければ、本当に相済まん事だし神様とてもね、それではガッカリしなさるだろうとこう思います。痛い思いをさせたけれども、そこん所が分かって呉れたかというて、神様も喜んで下さる訳ですからね。そういう信心を日頃求め抜いておかなければいけんと思うですね。
どうぞ。